2018/07/01

スッキリと目が醒めたかというとそうでもない。最近は不眠……というわけでもないのだけれど、中途覚醒に悩まされている。三時間か四時間の睡眠が続き、目が覚める。そのまま眠れそうにないので note で短い文章を書いたり下らないことをやったりしている内にバカバカしくなって来て、また寝ようと試みて眠りに就くことが出来る。

最近の個人的興味はJ・G・サリンジャーの短編集が出たこと。『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』だ。金原瑞人訳というのが面白い。柴田元幸さんじゃないのか。サリンジャーに関しては良い読者ではない。『ライ麦畑でつかまえて』ももちろん既読なのだけれどどんな作品だったかすっかり忘れているし、『フラニーとズーイ』も『ナイン・ストーリーズ』もつまんなかったし……再読してみないと評価は出来ないけれど。ともあれサリンジャーが読めるのは目出度いことだ。

十時からFさんという、私を支援して下さる方とリアルで二時間位お話しする。私のうっかりミスで網戸が空いていたにも関わらず空調を効かしてしまっていたことに終わったあと気づく。なにやってるんだか……二時間のお話の中で個人的なトラウマを色々語る。入社した頃に上司が盾と矛のような無茶な指示をこれでもかと押しつけて来たこと、それに耐えなければならなかったこと、でも世の中には睡眠時間を削ってでも働いている人も居るんだから……とプレッシャーに耐えたこと、しかし耐えきれなくなって自殺未遂をしたこと。そんなことを延々と話す。泣いてしまった。

それはそうと、こんな「日記」を誰が読むのだろう? 私の知り合いくらいしか、いや知り合いでも読まなそうに思う。私の日常なんて特に興味がない人が九割だろうし……この「日記」は『中原昌也作業日誌 2004-2007』を摘み読みしていて、自分も同じようなことをしてみたくなって書き始めた。まあ発達障害者なので、マイ・ブームの一環ということで飽きて終わってしまう可能性が大だ。三日坊主というやつだろう。でも OK ではないか。

それで、図書館に行って本をバカみたいに(ていうかバカなんだけれど)借りる。『戦争×文学 朝鮮戦争』というサーロインステーキみたいに分厚い本だ。あと大西巨人の『地獄篇三部作』という本を借りる。大西巨人は『神聖喜劇』を読まなければ話にならない作家なのは分かっているのだけれど、一度全五巻を光文社文庫版(2002 年刊行)で読み通そうとして半ばで挫折した苦い思い出が蘇るのだった。今年の夏こそは読み通そうと思うのだけれど、先のことなんて誰に分かる?

明日提出しなければならない書類があるのだけれど、全然気分が乗らない。本も読めない。『失われた時を求めて』を読もうとしたのだけれど全然進まない(ていうかもう、どんな話なのか見当もついていないけれどともあれ読んでいるだけ、という状態……)。それで『中原昌也作業日誌』を読んで、ヒントを得て自分の日常を書くのはネタが切れた時に面白いのかなと思ってこの「日記」を始めた次第。

ちなみにパソコンで音楽を聴きながら本を読むのだけれど、『中原昌也作業日誌』はどんな音楽をバックに流せば良いのか分からないまま摘み読みしている。中原昌也の本だから暴力温泉芸者かなと思ったけれど相性が悪いように思うし、中原昌也といえば都会っ子だし……ということでG・ラヴ・アンド・ザ・スペシャル・ソースやベックを試してみた結果、ルー・リードの『Set The Twilight Reeling』を聴くことにする。このアルバムが私とルー・リードがリアルタイムで遭遇してそしてそれっきりになってしまった一枚。名盤というわけでもないのだろうけれど(失礼!)、緩いグルーヴが良い。中原昌也の弛緩した即物的な文章に似合う気がする。

中原昌也について書いていたら中原の短編集を読み返したくなるので(基本的に中原の短編集はつまらないと思うのだけど、活字が頭に入らない時に読むとハマる)、『マリ&フィフィの虐殺ソング・ブック』と『子猫が読む乱暴者日記』を手元に持って来る。書類は明日の朝にでも無理矢理書くことにして、今日は『中原昌也作業日誌』とこれらを摘み読みしながら――映画を観る気も起こらないので――ルー・リードをダラダラ聴いて過ごそうかな、と思う。ノンアルコール・ビールでもあれば最高なのだけれどカネがないので水で我慢、我慢……。

J・G・バラード『ミレニアム・ピープル』

どんな音楽がこの小説のサウンドトラックに相応しいだろう……そんな話題から始めるのは到底「書評」ではないだろう。でも、私はプロではないから良いのだ。だから勝手に始めさせて貰おう。例えば、『残虐行為展覧会』というJ・G・バラードの短編集の表題作で繋がるジョイ・ディヴィジョンなんてどうだろう。なんならニュー・オーダーだって良い。初期のデペッシュ・モード(ヴィンス・クラークが在籍していた頃)も捨て難い。レフトフィールドアンダーワールドケミカル・ブラザーズも良いな。バラードは都市の匂いがプンプン漂うのでザ・ジャムザ・クラッシュも良い……なんてことを考えつつ、最終的にプライマル・スクリーム『イーヴル・ヒート』を聴きながら読んだのだった。あるいは、ゴリラズも良いかな、なんて……。

J・G・バラードに対して良い読者ではない。『結晶世界』すら読んでいないのでその時点でお里が知れる、というもの。この長編も「目を通した」という以上の感想が出て来ない。ので、無理矢理音楽の話をマクラに持って来てしまったが、考えてみれば上述したバンドは全部イギリスから現れた存在であることに思い至る(そう言えばレディオヘッド、マンサンやザ・ポリス、マニック・ストリート・プリーチャーズも良いかな……いや、脱線はこのくらいにしておこう)。つまり私にとって、本書に描かれた世界は「イギリス」なのだ。解説文で渡邊利道氏はアメリカの同時多発テロがこの小説に与えた影響を指摘しているが、私はむしろ英国臭い小説、英国でなければ生まれ得なかった小説のように感じられた。

難解な小説かというとさにあらず。ミステリとして読むことが出来る。主人公の妻を殺したのは誰か? という謎を追い掛けたものとして。だが、私はあまりミステリとしての面白さ/旨味を追及する方向で本書を読むことは出来なかった。そういう読み方はこの作品には相応しくないように思ったのだ。あまりミステリとして読むとテクニカルじゃないかな、という……安部公房の小説があまりミステリとして面白くないのと同じように、バラードもミステリに見せかけて実はミステリではない世界を描いているように思われた。バラードが見せるのは(このあたり、安部公房も実は『砂の女』すら読んでいないので怠惰がバレるが)ヴィジョンなのだ。

ラードがこの小説で徹底して描写するのは、テロリズムである。しかもそれはあまり意味を為さないテロだ。大義のために行われるのではなく、徹底して無意味でシュールで「日常」的な……テロが日常と化した世界、と言って良いのかもしれない。このあたり、戦争が「日常」と地続きだった「第三次世界大戦秘史」を連想させるのだけれど、例えば通り魔殺人事件と同次元にまでテロが貶められた(!?)世界。そんな風景を連想してしまう。秋葉原で起こった無差別殺人を連想してみよう。あれも立派な「テロ」ではなかっただろうか。そして私たちはその殺人の徹底した「無意味」に唖然とさせられたのではなかったか。

というようなことを書くと、多分ブロック必至だろう。私も不謹慎なことを書いているのは分かっている。だが、バラードという作家は本来そういう「不謹慎」な作家なのではないか(と、またも不勉強を棚に上げて言ってしまう)。例えばウエルベックの隣にバラードを置いてみるとどうなるだろう? この小説で描かれている「テロ」の「無意味」でフラットな描写はアタマがクラクラしそうになる。あまりにも平板で、ハリウッドで展開される映画のそれのように既視感ありまくりな描写(ウエルベックは実は読んだことがないのだが、だとすれば村上龍五分後の世界』ではどうか?)。全ては情報としてのっぺりと提示されて、こちらの情に訴え掛けるところがない。キネティックで、なるほど大岡昇平を読み込んでいた影響はあるのかなと思わされてしまう。

たまたまこの駄文を書いている今まさに、ある通り魔殺人事件が報道されている。バラードの小説を現実が追い越したのか? それともバラードは現実を予告していたのか? と、「明らかに」関係のないフィクションとノンフィクション、虚構と現実が私の脳内でぶつかり合って(件の通り魔はドストエフスキー罪と罰』を読んでいたというが、まさかJ・G・バラードまでは読んでいなかっただろう)、不思議に「キョトン」とさせられてしまう。この想像を不謹慎だと嗤うなら嘲って欲しい。だが、バラードを現実に引き寄せて読む誘惑を私は抑えられそうにない。その誘惑の強度においてこそバラードは優れた作家なのだな、と思わされる。

今回のレヴュー/駄文ではいつもにも増して「不謹慎」なことを書いてしまった。妄想も甚だしい、と言われるだろう。まさしくその通り、だが、「まじめ」なバラード読解なんて私には出来ない。バラードはそんな「まじめ」な読みに収まらない作家ではないか、と居直ってこの駄文を〆ることにしたい。申し訳ない。

絓秀実『増補 革命的な、あまりに革命的な』

増補 革命的な、あまりに革命的な (ちくま学芸文庫)

増補 革命的な、あまりに革命的な (ちくま学芸文庫)

 

遂に絓秀実氏の著作を文庫で読める日が来たのか、と嬉しくなってしまった。高校生の頃に斬新だった(なんだったら前人未到と言っても良い)「チャート式」文芸批評を行っているのを読んだことに衝撃を受け、また小林よしのり宅八郎の論戦や筒井康隆氏の断筆宣言問題で果敢に論陣を張る姿に感服させられて以来一ファンとして――全ての著作を読んだわけではないにしろ――絓氏の足取りは追って来たつもりだった。この『革命的な、あまりに革命的な』(以下『革あ革』と略記)も単行本版を買って積んでいたのだけれど、結局読まないまま今日まで来てしまった。恥ずかしい話だ。今年が「六八革命」から五十年目にあたることから文庫化が実現したのだろう。なにはともあれめでたい話だと思われる。

本書は 1968 年に起きた世界的な革命をめぐって語られる著作である。この年は政治的な活動が起こった。日本では全共闘活動が起き国内が揺れ、文化的にもポップ・カルチャー/サブカルチャー(映画・文学・演劇など)で不可逆的な変容が起こった。絓秀実『革あ革』はその変容を例えばラカンジジェクドゥルーズガタリを用いながら読み解こうという野心の表れである。なにかにつけて「六八革命」に触れて来た絓氏だが――絓氏自身当事者として 1968 年を生きただろう――この本は言わばライフワークと言える。

と書くと難解な著作を連想されるかもしれないが、別段ラカンジジェクを知っていないと読めないという本ではない。絓氏の著作は論理のアクロバット/不真面目さで読ませる面白い本が揃っている。見掛けは難解に見えるかもしれないが論理をきちんと筋道立てて読み進めて行けば絓氏の論理が柄谷行人氏よりも明晰であることが分かるはずだ。戦後民主主義やニューレフト、全共闘といった背景を知らなくても(もちろん、知っているに越したことはないが)スラスラと読めてしまう。私自身不勉強な読者なので、本書から教えられることは多かった。

ひと口で言えば、今では回顧の対象となり「黒歴史」となってしまっている左翼の活動が今なお見直すに値するアクチュアルなものであることを指摘している。それに尽きるだろう。その一点を確認するために絓氏は大江健三郎を論じ詩を論じ、演劇に触れあるいは経済学を引っ張り出す。絓氏はさり気なく全共闘について触れている大塚英志氏の論考などに触れて連合赤軍をめぐる問題を論じてもいるのだが、ややもすると単にセンチメンタル/感傷的な昔話に陥ってしまうところを辛うじて回避して今なお「六八革命」が続いていることを確認することに終始している。だから悪ノリ感はそんなにない。笑える場所があるのが絓氏の著作の良いところだと思うのだけれど、本書にはそういうところはない。その点、やや期待外れな印象をも抱いた。

「1968」をめぐって小熊英二氏や四方田犬彦氏といった論客が著作を発表している。読んでいないのでフェアに対比することは出来ない。だが、例えば(なんの脈絡もなく挙げてしまうのだが)全共闘をめぐる言葉は先に述べたようにややもすると挫折した理想として語られてしまうことが多い。山下敦弘マイ・バック・ページ』のような映画、あるいは村上春樹ノルウェイの森』のようにだ。だが、それは「歴史修正主義」というものではないだろうか。あの理想を間違いだったとして全否定して日常に回帰すること、それは反動的/非現実的な営みではないだろうか。「六八革命」が恥だったとするならその恥をも引き受けるべきではないか……絓氏はそう語っているかのようだ。

本書はその意味では「恥」をも全面的に引き受けて、ひとりで(本当に「たったひとりで」)「六八革命」の永続を引き受けている著者の野心が伺える。私は当時を生きていたわけではないので、絓氏の歴史認識や文学論が何処まで正鵠を射るものなのかもちろん確認のしようがない。難を言えばこの流れで大江だけではなく中上も論じて欲しいと思ったところだが――中上健次が名前すら出て来ないのは残念に思う。中上もまた「六八革命」を引き受けた作家ではなかったか――瑕疵に過ぎない。二読・三読に耐え得る、時代の流れに呑み込まれて古びてしまうことのないマイルストーンとなっているのではないかと思った次第である。この流れで絓氏の初期の著作が文庫化されることを期待したい。

近年の絓氏は、『早稲田文学』の金井美恵子特集号に寄せられた文章でも思ったことだが本当にしつこく「六八革命」に拘泥し続けている。ということは文学で言えば金井美恵子や先に述べた中上、深沢七郎あるいは(やや時代が遅れるが)村上龍といった作家を引き受けて――あるいは後藤明生も?――論じる覚悟があるのかもしれない。金井美恵子にいつもやられっぱなしという印象を抱く絓氏が、ここで刺し違える覚悟で金井美恵子論を書いてくれれば面白い……そう思いつつ拙い筆を置く。

ジョン・ヒューズ『ブレックファスト・クラブ』

ジョン・ヒューズ『ブレックファスト・クラブ』を観た。

ブレックファスト・クラブ [DVD]

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容赦のない評価をしてしまうと、この映画は私の好みには合わなかった。山崎まどか長谷川町蔵ヤング・アダルトU.S.A. (ポップカルチャーが描く「アメリカの思春期」)』で高く評価されていたから、期待値が高まり過ぎてしまったのかもしれない。難しい映画だと思う。

ジョン・ヒューズ監督の映画は『フェリスはある朝突然に』と『ときめきサイエンス』しか観ていないので、この監督をフェアに論じられるとは毛頭思っていない。だが、結局この監督は自分自身の「青春」を撮ろうという不器用な監督なのだろうなと思ってしまった。だから突き放して撮ることが出来ないのだ。中上健次が父と子のテーマに拘泥し続けたように、あるいは大江健三郎が自分と息子をめぐる問題にこだわったように。だからぶっちゃけて言えば、監督としてはド下手な部類に入るのだろうなと思う。ハッとさせられるような場面がさほど――皆無というわけではないけれど――ないのだ。

前半の仕込み段階が観ていて特にキツかった。話が遅々として進まないのだ。高圧的な先生と、それに反抗する生徒。彼らのやり取りがもう少し丁々発止だったら、テンポが良かったらと惜しまれる。あるいは小ネタ/ギャグを挟むとか、やりようはあっただろうにと。その点で『フェリスはある朝突然に』は成功していたので、この落差はなんだろうと考え込んでしまう。

逆に言えば後半で登場人物たちが教室から抜け出すあたりはこの映画が躍動感を得られる場面であり、彼らの走る姿はそれだけでカタルシス/爽快感を感じさせるものだった。見事なものとして、眠気を忘れて観てしまった。こういう躍動感が欲しかったのだ。だが、監督はこの映画を密室劇として撮りたかったのではないか? とも思う。五人の生徒の人間関係を、緊密に/密接に繋がったものとして撮りたかったのではないかと。ほんの一時だけの友情関係を撮りたかった……彼らの人間関係はその意味で実に儚い。

五人の中で一番イケてない女の子が(このあたり、ネタを割るが)変身してしまうところは実に良い。ジョン・ヒューズ監督は女性/女の子を描くと巧いな、と思わされる。それは監督の繊細な感受性を示しているとさえ言えるだろう。『ときめきサイエンス』がなんだかんだ言って面白かったのも、そういう女の子の巧さだったのかなと。そのあたりもっとド派手でエロティックな要素を期待したかった。だが、それをやるとジョン・ヒューズ作品はぶち壊しになるので難しい。

あとはまあ、こちらがスクールカーストに関してあまり詳しくないことやそもそも関心がないことも尾を引いているのかもしれない。私自身学生時代あまり良い生徒ではなかったし、スクールカーストとも無縁だったので……だから誰にも感情移入出来ない。ボンクラや不良、変人やプリンセスといった類型的なキャラが五人揃っているのだが、彼らのキャラが立っていると分かるかどうか? そのあたりで評価は割れるのかもしれない。いや、実に語るのが難しい映画だ。

そんなところだろうか。監督に求めているのが躍動感であって(だから『フェリスはある朝突然に』は面白かったのだ)、それ以外の要素ではないことが今回の鑑賞でハッキリした。それがこの鑑賞体験の収穫だったと思われる。あとは女の子の描写。これは私の助平心も多分に混じっていると思われるのでこれ以上書くと墓穴を掘りそうだ。なんだかんだで興味深い体験ではあった。だが、これ以上ジョン・ヒューズ作品を掘り下げる前に同時に借りている『glee』を観てみたいとも思う。

坪内祐三『文庫本を狙え!』

文庫本を狙え! (ちくま文庫)

文庫本を狙え! (ちくま文庫)

 

燻し銀だな、という印象を抱いた。渋い一冊だ。野球はあまり詳しくないので間違っているかもしれないが、イチロー選手を連想した。イチロー選手はド派手なホームランバッターというわけではない。むしろ他の選手を積極的に歩かせる内野安打を積み重ね、そしてあの実績と信頼に至ったのだ。同じことが坪内祐三氏のコラムにも言える。

週刊文春』で今でも連載されている「文庫本を狙え!」という連載の最初の 171 回を収めたのが本書ということになる。読んでみて思わされるのは、全然二十年前に書かれたという臭みが感じられないことだ。古びていない……陳腐な言い方になるが、他に形容のしようがない。いや、固有名詞は古いものがそれなりに登場する。毎回一冊の文庫本を選んで俎上に乗せて紹介する試みが為されているのだが、選ばれている文庫本のチョイスももちろん今となっては手に入らないものが多く、従って古びている。だが、今読む価値がないコラムかというとそうではない。貴重な資料的価値はあるのではないか。著者の底力を思わされた気がした。

なによりもチョイスの幅の広さはどうだろう! 岩波文庫講談社文芸文庫といった文学書を数多と刊行しているレーベル、ちくま学芸文庫平凡社ライブラリーのような哲学書を専門としたレーベル、それ以外には芸能人/タレントが刊行したイロモノ(失礼!)の文庫も取り上げられている。私たちはウィトゲンシュタインの回想録と爆笑問題の漫才を同じ次元/目線から読むことが出来るのだ。どんな素材を扱っても常に分かりやすくかつ奥深く料理出来るのは流石と言うべきか。どの分野に関しても相当造詣が深くなければ出来ない芸当だ。私自身――主に平凡社ライブラリー岩波文庫ちくま学芸文庫を――掘り下げたくなってしまった。永井荷風を読み返してみようか?

いぶし銀、ということは裏返せばそれだけデーハーさがないということでもある。目立たない、地味なコラムなのだ。毒舌で鳴らす書評家の技芸を期待するとお門違いということになるだろう。だから無味乾燥なコラム集に映るなら、それはそれで仕方がないと思う。手前味噌というのだろうか、このコラムの凄味は「ある程度読書を嗜む人」にしか分からないのではないか。週に一冊は文庫本(でなくても構わないが)を読む習慣がない人には、ナンノコッチャで終わってしまうかもしれない。その意味では本書は読者としての私たちを試す、侮れない書物ということになる。私自身も試されているわけだ。ドキドキする。

それにしても、色々な書物が刊行されているのだなと唸らされてしまう。ジャイアント馬場を扱った本、デヴィッド・リンチビートたけし水木しげる、そしてもちろん純文学の重鎮たち……こういう作家たちと一冊一冊丁寧に四つに取っ組み合って出来たのが本書なのだ。先述したように「内野安打」の味わいがある。ド派手なホームランを期待してはいけない。これが坪内氏を貶めないように響くことを祈るばかりだが、斬新な見解が提示されているというわけではない。むしろ搦手でこちらを刺激する、奇抜さのない地に足の着いた見解が興味深いのだ。例えば書評子の狐のような人物の文章が好きな方には堪らないのではないか。

プロとしての仕事をしている……私自身は実を言うと坪内祐三氏のコラムに関してあまり良い印象を抱いていなかった。読まず嫌いを決め込んでいたのだ。『新書百冊』も『人声天語』も積読状態だったし……だが、本書を読んで俄然読む気にさせられてしまった。私自身はド派手なホームランバッターのコラムが好きなので(高橋源一郎氏なんかがそうですね)、坪内氏は地味に過ぎると思っていた。だが、曲がりなりにもこうやって書評/感想文を書くとなるとその底力に思わず唸らされてしまう。私自身の書いているものがアマチュアのそれでしかないことに気づかされ、いたく失望してしまった。この円熟味は出そうと思って出せるものではあるまい。

坪内祐三氏のシリーズは『文庫本福袋』『文庫本玉手箱』『文庫本宝船』を持っている。これから読み薦めて行くつもりである。この二十年に世相がどう変わり、そして坪内氏がどう変わらなかったか。それを確かめてみたいと思っている。きっと落胆はしないだろう。二千本安打を達成したイチロー選手のように、職人芸でこちらを魅せるコラム群からは学ばされることが多い。私自身文庫本の世界をもっとディグりたくなってしまった。文庫本とひと口に言っても様々なジャンルがあるものなのだなと当たり前のことを思わされてしまった。その色々なジャンルを跨いで活動出来る坪内氏に、例えばベンヤミンを重ね合わせるのは頓珍漢に過ぎるだろうか?

文庫本の世界は奥が深い。こないだも『ウンガレッティ全詩集』が出たばかりである。気づかないだけで静かなムーヴメントはいつだって起こっているのだ。それを鋭敏にキャッチ出来るアンテナの高さに羨望を抱きながら、私は本書を読み終えた、硬軟取り混ぜたチョイスが今後どう幅を広げて行くのか楽しみに感じられる。

山崎まどか・長谷川町蔵『ヤング・アダルトU.S.A.』

ヤング・アダルトU.S.A. (ポップカルチャーが描く「アメリカの思春期」)

ヤング・アダルトU.S.A. (ポップカルチャーが描く「アメリカの思春期」)

 

A「さて、今回紹介するのは長谷川町蔵山崎まどか『ヤング・アダルトU.S.A.』という本です」

B「山崎まどか氏はつい先日書評集『優雅な読書が最高の復讐である』を紹介したね。『オリーブ』を契機に女性向けの様々な媒体――紙ももちろんだけれどもネットも――で執筆している読書家にして文化人。片や長谷川町蔵氏は『観るシネマ×聴くロック』など音楽と映画に造詣が深いライターにして批評家。最強のコンビネーションだと言えるね」

A「では肝腎の内容についてなんですけれど、どう読まれましたか?」

B「字がちっちぇーなって」

A「……」

B「歳のせいか老眼が始まったようなんだよ。だから読みにくくて」

A「私は内容について語って欲しいとお願いしたんですけれど」

B「そうだね。本当に字がちっちゃい本。裏返すとギューギューに『情報』が詰められているね。タイトル通りアメリカの十代の映画や音楽、文学などを紹介した本。おれ自身音楽についてはそれなりに知識があると思っていたけれど、このおふたりの会話を読むと全然ついて行けなかった」

A「確かに普通の字の大きさで出版するとなると 600 ページくらいになりそうですね。まず、ジョン・ヒューズについて語られます。彼が始祖となってアメリカのヤング・アダルト/思春期を描いた映画が後の俳優陣や映画監督などのクリエイターにどう影響を及ぼしたか分かる。ふたりの口調は熱いですね」

B「ジョン・ヒューズが監督しているとのことだからネトフリで『フェリスはある朝突然に』とか観ちゃったよ。そういう風に人を誘う本ではあるんじゃないかな。読んでいて驚かされたのは、デヴィッド・ロバート・ミッチェルを逸早くチェックしていること。この監督は『イット・フォローズ』で日本でもカルト的な人気を誇る映画監督になったんだけれど、既に知っていたのかと驚かされたね」

A「でも、決してマニアックな本ではないんですよね。もちろんある程度こちら側に予備知識がないと辛い部分はあるかなと思いますね。だけど『glee』のような有名な海外ドラマも紹介されていて、アメリカの十代のスクールカーストだとか非モテだとかそういう事情に詳しくなれる。この本を読んでからアメリカの青春映画を観ると面白さは百倍増しになりますね。誰の映画がお薦めかな?」

B「やっぱり今話題になっている『イット・フォローズ』かな。あと今プライム・ビデオで『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』が配信されているけれど、それもこの本を読んだあとに観たら面白いかもしれないね」

A「ソフィア・コッポラ『ブリングリング』も紹介されてますね。あまり良い評価はされてないけど」

B「まあ、本書はその意味では良いガイドブックだね。最先端の情報をこれでもかというくらい詰め込んだ本。ふたりの語りを手掛かりに『glee』や、おれは観てないんだけれど『13の理由』なんかを観てみたら面白いんじゃないかな。人種差別問題やフェミニズム――エマ・ワトソンに代表されるような――にも切り込んでいて、欲を言えばもう少し政治的なトピックも論じて欲しかったところ。ただ、このヴォリュームに更に……というのももどかしいね。ラーメン二郎のトッピング並みに過剰な本だから」

A「なにが凄いかって、本書は海外ドラマや映画ファンだけに閉じられた本ではないことですね。アカデミックな匂いはしないんだけれど、これはもうカルチュラル・スタディーズと言っても良いんじゃないかと言ってもいいくらい。大学でアメリカの文化史を眠気を堪えながら聞いている人は本書を読めば目からウロコが落ちまくると思いますね」

B「あまり好きな言葉じゃないんだけれど、本書は『テン年代』のアメリカ文化を総ざらいした本であるともいえるね。今鮮度が良い状況なんだから読み逃すテはないと思うね。もちろん、記録的価値のある本でもあると思うから意外と賞味期限は長いかなとも思うけど」

A「本書を手掛かりに、私たちなりに『ヤング・アダルトJ.P.N.』を作ってみるというのも面白いですね。山崎さんはその意味では適任かも。日本の純文学――尾崎翠森茉莉金井美恵子など――を読み込んでいるわけだから。長谷川町蔵氏は日本のロックに関してどれだけ詳しいんだろう? 私も早速ヤング・アダルトにお薦めしたい本を探りたくなっちゃった」

B「誰もが一度は通るのが青春だからね。その青春を引きずったまま大人になっちゃった人――決してモラトリアム願望があるわけじゃない人もだけど――にもうってつけの本だと思うね。また固有名詞を出して恐縮だけれど、『ツイン・ピークス』も本書の流れで従って観れば面白いかも」

A「まあ、ともかく一読をお薦めしたい本ではありますね。山崎さんも長谷川さんも、スクール・ライフを『理不尽』と語っているところが面白いですね。屈折した十代を送っているクラスの片隅のガリ勉君にも、センスを磨く上で欠かせない本となるんじゃないでしょうか」

B「おれも早速『glee』を観てみてるんだけれど、まあ肌には合わないかなと思う。ただ、アメリカ史を知る上では欠かせない本であることは認めるに吝かではないね。これからも生まれ続けるジョン・ヒューズの末裔たちの世界を知る上で『地球の歩き方』並みに重宝する本だと思う……と書いてこの駄文を〆ようかな。有難うございました」