坪内祐三『文庫本を狙え!』

文庫本を狙え! (ちくま文庫)

文庫本を狙え! (ちくま文庫)

 

燻し銀だな、という印象を抱いた。渋い一冊だ。野球はあまり詳しくないので間違っているかもしれないが、イチロー選手を連想した。イチロー選手はド派手なホームランバッターというわけではない。むしろ他の選手を積極的に歩かせる内野安打を積み重ね、そしてあの実績と信頼に至ったのだ。同じことが坪内祐三氏のコラムにも言える。

週刊文春』で今でも連載されている「文庫本を狙え!」という連載の最初の 171 回を収めたのが本書ということになる。読んでみて思わされるのは、全然二十年前に書かれたという臭みが感じられないことだ。古びていない……陳腐な言い方になるが、他に形容のしようがない。いや、固有名詞は古いものがそれなりに登場する。毎回一冊の文庫本を選んで俎上に乗せて紹介する試みが為されているのだが、選ばれている文庫本のチョイスももちろん今となっては手に入らないものが多く、従って古びている。だが、今読む価値がないコラムかというとそうではない。貴重な資料的価値はあるのではないか。著者の底力を思わされた気がした。

なによりもチョイスの幅の広さはどうだろう! 岩波文庫講談社文芸文庫といった文学書を数多と刊行しているレーベル、ちくま学芸文庫平凡社ライブラリーのような哲学書を専門としたレーベル、それ以外には芸能人/タレントが刊行したイロモノ(失礼!)の文庫も取り上げられている。私たちはウィトゲンシュタインの回想録と爆笑問題の漫才を同じ次元/目線から読むことが出来るのだ。どんな素材を扱っても常に分かりやすくかつ奥深く料理出来るのは流石と言うべきか。どの分野に関しても相当造詣が深くなければ出来ない芸当だ。私自身――主に平凡社ライブラリー岩波文庫ちくま学芸文庫を――掘り下げたくなってしまった。永井荷風を読み返してみようか?

いぶし銀、ということは裏返せばそれだけデーハーさがないということでもある。目立たない、地味なコラムなのだ。毒舌で鳴らす書評家の技芸を期待するとお門違いということになるだろう。だから無味乾燥なコラム集に映るなら、それはそれで仕方がないと思う。手前味噌というのだろうか、このコラムの凄味は「ある程度読書を嗜む人」にしか分からないのではないか。週に一冊は文庫本(でなくても構わないが)を読む習慣がない人には、ナンノコッチャで終わってしまうかもしれない。その意味では本書は読者としての私たちを試す、侮れない書物ということになる。私自身も試されているわけだ。ドキドキする。

それにしても、色々な書物が刊行されているのだなと唸らされてしまう。ジャイアント馬場を扱った本、デヴィッド・リンチビートたけし水木しげる、そしてもちろん純文学の重鎮たち……こういう作家たちと一冊一冊丁寧に四つに取っ組み合って出来たのが本書なのだ。先述したように「内野安打」の味わいがある。ド派手なホームランを期待してはいけない。これが坪内氏を貶めないように響くことを祈るばかりだが、斬新な見解が提示されているというわけではない。むしろ搦手でこちらを刺激する、奇抜さのない地に足の着いた見解が興味深いのだ。例えば書評子の狐のような人物の文章が好きな方には堪らないのではないか。

プロとしての仕事をしている……私自身は実を言うと坪内祐三氏のコラムに関してあまり良い印象を抱いていなかった。読まず嫌いを決め込んでいたのだ。『新書百冊』も『人声天語』も積読状態だったし……だが、本書を読んで俄然読む気にさせられてしまった。私自身はド派手なホームランバッターのコラムが好きなので(高橋源一郎氏なんかがそうですね)、坪内氏は地味に過ぎると思っていた。だが、曲がりなりにもこうやって書評/感想文を書くとなるとその底力に思わず唸らされてしまう。私自身の書いているものがアマチュアのそれでしかないことに気づかされ、いたく失望してしまった。この円熟味は出そうと思って出せるものではあるまい。

坪内祐三氏のシリーズは『文庫本福袋』『文庫本玉手箱』『文庫本宝船』を持っている。これから読み薦めて行くつもりである。この二十年に世相がどう変わり、そして坪内氏がどう変わらなかったか。それを確かめてみたいと思っている。きっと落胆はしないだろう。二千本安打を達成したイチロー選手のように、職人芸でこちらを魅せるコラム群からは学ばされることが多い。私自身文庫本の世界をもっとディグりたくなってしまった。文庫本とひと口に言っても様々なジャンルがあるものなのだなと当たり前のことを思わされてしまった。その色々なジャンルを跨いで活動出来る坪内氏に、例えばベンヤミンを重ね合わせるのは頓珍漢に過ぎるだろうか?

文庫本の世界は奥が深い。こないだも『ウンガレッティ全詩集』が出たばかりである。気づかないだけで静かなムーヴメントはいつだって起こっているのだ。それを鋭敏にキャッチ出来るアンテナの高さに羨望を抱きながら、私は本書を読み終えた、硬軟取り混ぜたチョイスが今後どう幅を広げて行くのか楽しみに感じられる。